解離


昨日(日曜日)の、東浩紀ツイッターで「この世界の片隅に」について触れていた内容が素晴らしい、まさにこうだ、こういうことだ、と深く納得した。

柄谷行人は「風景の発見」こそが近代文学の内面を作り出したと説いた。それを援用してみる。風景とは映像表現では背景である。アニメでは背景美術である。背景がリアリズムを志向し他方でキャラクターだけはデフォルメして描かれる、その二重性が広く受け入れたときアニメは「自然」なものに見える。


しかしむろんその「自然」は欺瞞である。それは現実を覆い隠す欺瞞にすぎない。その点で「君の名は。」の「美しい」「リアル」な背景は欺瞞の完成である。他方で「この世界の片隅に」はどうか。この作品では背景とキャラクターは分離されない。否、背景が絵にすぎないことがむしろ幾度も強調される。


アニメーションの本質はなにか。それはすべて嘘だということである。すべて現実ではないということである。だからそれは解離の表現に向いている。「この世界の片隅に」は解離の作品である。すずは戦争から解離している。だがその解離こそが現実であり生なのだというのが本作の主題である。


アニメはリアルな戦争は書けない。しかし人間もまたリアルな戦争など感じることができない。僕たちは現実を絵のようにしか見れないのかもしれない。むしろそのことでこそ僕たちは生き続けるのかもしれない。「片隅に」は、アニメという媒体の特性を活かして、その解離と生の関係を描いた傑作だと思う。


ただし、僕が観てそう思った、というのではなくて、誰かが観てそう思ったということを、僕が「そうそう、よくわかる」と言ってるのである。僕は、この映画にはもやもやしたわけで、仮に再度見直しても、やはりもやもやするのかもしれないのである。


僕はどうしても、この映画みたいに、あまりにも強大なテーマをモチーフにされると、そちらに引っ張られてしまう。ドラマで犬や猫が殺されるシーンを見たら、そのショックで物語なんかすっとんでしまうでしょ、というのに近いかもしれない。その意味では「解離」していない。そこに病気があるような気がする。