坂口安吾を読んでいると、意外に、というか、けっこう保坂和志的な感じがする。その思弁性というか、小説の枠組みの中で縦横無尽に言いたいことを混ぜ込んでいく感じ、小説としての体裁が壊れていくことに頓着しない、むしろ積極的にそれらしくない感じを呼び込もうとする感じに、おお、ここに、すでにあの感じがあると思わされる。
同時に、けっこう司馬遼太郎的な感じもある、というのは柄谷行人「坂口安吾論」に「勝海舟とか織田信長、ああいうのを見つけてきたのは安吾なんですね。司馬遼太郎はそれをふくらませただけです。」とあって、それも踏まえて「二流の人」を読んでいて思ったこと。歴史小説としての安吾のスタイルは、その着眼点といい形式といい、その時点でほとんど安吾の発明と言って良いくらいのものだったのか。司馬遼太郎敵な語り--話を勧めつおそろしく冗長に回り道的な傍流エピソードを混ぜ込んでいく--の取り留めなさの源流みたいなものが「二流の人」ですでにはっきりと感じられるのには驚く。
しかし安吾をもう一度きちんと読み直したい。先日一部を引用した「帝銀事件を論ず」とか、読んでいて思わず泣いてしまったよ・・。
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