上條淳士「To-y」全十冊をヤフオクで落札して久々に再読。我ながらマンガ読むスピードがじつに遅くてまだ二巻の途中。
かつて(中学生時代)夢中で読んで以来の再通読だが、思ったよりも来ないというか、さすがにこれはちょっと…と思うところも少なくなくて、わりとすぐに飽きてしまうところもある。まあ、物語はほぼ紋切り型の連続というか、主人公があふれる音楽的才能で頭角をあらわしつつ本当の自分を見出す的な王道の展開で、歌舞伎の見栄っぽく所々でキメるためにおおざっぱな流れが作られているみたいな感じだ。とはいえやはり傑作だと思う個所も多くて、その魅力は度々挿入されるギャグだとか、時代っぽさとか風景とか、または当時の風俗や人間関係やライフスタイルのイメージとかに濃厚だ。たぶん中学生の頃の自分も、そんな細部に惹かれたのだし今になって読んでもそうだ。八十年代的あこがれの一端がここにあるという感じだ。それは金融屋なんかが入ってる雑居ビルの壁に這うヒビとか薄暗い階段とか、その屋上の殺風景な一室が住居で室内にはベッドとオーディオシステムとソファと流し台だけがあるとか、街の埃っぽさとか、日比谷の野外音楽堂のコンクリートの質感だとか、ライブ名が"帝王切開"だったりするところとか、集まってくる人たちのダラッとしたヨレっとした服装だとか、そういう世界全体の雰囲気だ。そんな個々の描写と、イメージ的かっこよさと、物語の流れが、丹念に読んでいくとかなり巧妙に構成されているのがわかる。(すべて敏腕マネージャーの思惑通りにことが進んでいくわけではなく、結果的にはそうなるけど、それまではいろいろな人の様々な思いが交差している。)
パンクという音楽ジャンルは、日本においては1987年のザ・ブルーハーツデビューにおいて一挙にイメージが変わってしまったのだが、「To-y」連載開始時パンクのイメージはまだ「ブルーハーツ以前」だった。主人公の冬威がボーカルを務めるパンク・バンドはその時代の空気において想像されるべきで、逆立てた髪やリストバンドや革ジャンは今やパンクのステロタイプではなくて様々なジャンルに拡散してしまったが、当時はそれでパンク的アイテムとして通用していたところが面白い(もちろん当時から国内のパンクにも様々な地域性、流派性とファッションがあっただろうけど)。とはいえ中学生時の自分がパンクという言葉を受けて、その謎めいたジャンルに対して思い浮かべたのは、いわゆるオイ!パンク的というかハードコア的なやつで、まるで土方のお兄さんが削岩機で道を掘り起こしてるみたいな、狂ったような2ビートをひたすらやってるみたいなイメージだったので(そういう音楽を当時から聴いていたわけではなくてあくまでも何かで齧っただけの一面的なイメージ)、冬威はあんなハンサムでクールなルックスなのに、あんな高血圧の狂人みたいな歌でライブ会場をいっぱいにするんだから、それはさぞかしとてつもない歌手なんだろうと想像していたものだが、たぶんそれはそうじゃなくて、おそらく「To-y」やその周辺のライブ"帝王切開"出演バンドたちはもうちょっと耽美系というか、今でいうヴィジュアル系な人たちの走りだったのだろうか(たぶん"カイエ"のペニシリン・ショックは明らかにそんな感じ、冬威の"GASP"はパンクというよりもやはりスライダースっぽい感じか)。