金曜日の夜の一一時過ぎ、深夜スーパーの棚を眺めていると、店内BGMで頭上からコルトレーンの「ナイーマ」が流れる。

コルトレーンの音楽は「ええと…はい、だったら、やりますよ」といった、少し腰の引けたような、これからやることに対してかすかな自意識的な距離感をみずから設定しているかのような不思議な屈託が、自分にはいつも感じられる。とくに「ナイーマ」のようなスローなテンポだと、それが如実に見える気がする。

それは、はにかみとか照れとも少し違う、不思議な遠慮のあらわれかたであると思うのだが、だとしたら彼は何に遠慮しているのか。直感的に試しで書きつけてみるけど、それは形式、規則に対してではないかと思う。これをこのやり方でやっていることの、微妙な居心地の悪さを、コルトレーンはいつも内側から曲調へ反映させて憚らない、それで良しとする判断基準、その感覚を、あらためて不思議に思う。

まだ若い頃に、はじめてジャズを聴こうと思って、集中的に試してみて、そのときはさっぱり面白くなくて、それから少し時間をあけて、まだ記憶に残ってる数曲からふたたび聴き直していくことで、結局ジャンルとしてのジャズではない、個別の楽曲、高速で疾走するオスカー・ピーターソンだとか、粘液的表現主義で曲の向うからロマンティックな死の香りを運んでくるエリック・ドルフィーだとか、それらを作家の名のもとに深堀りしながら接することで、なんとなく自分なりの、自分が必要とするジャズの手触りを確かめることになっていき、教養主義へのコンプレックスや反撥や焦りは感じつつ、何よりもまず、これはと思える数枚のレコードを知っていることが、結局はジャンルとしてのジャズを自分なりのやり方で落とし込むのとイコールで、それ以上でも以下でもないのだと、どこかで知るというか、そこまで考えていったんは、そこで諦めたのだった。

で、それにしてもコルトレーンの音楽、その求心性、目的へ急ごうとする強い切迫感、苦痛が歓びへ変わる瞬間のコントラストとか、それもまた単独で味わい聴きとるしかない個別的な音楽として、こちらの耳をとらえて離さなかったのは確かなのだが、その一方で、とくに激しいブロースタイルでなく比較的既成フォーマットに従順な場合に顕著なのだけど、彼の音は終始、聴き手の肩肘張った期待をあっさり受け流すかのような頼りなさで聴こえてきて、こちらの気持ちを萎えさせるのだった。

あのアルバム「Ballads」を素晴らしいと評するなら別だが、それを省くならコルトレーンの「美」を心ゆくまで称揚してるジャズ批評なんて存在しない。革命家とか求道者とか闘士とのイメージで語られることはあまたあっても、音そのものの美しさに陶酔するような言葉は、コルトレーンを対象とした場合むずかしい。なにもコルトレーンでそれをあらわさなくても…という、妙な遠慮というか余計な自制の配慮が効いてしまう。それはなぜか。

しかしあらためて「ナイーマ」は、掛け値なしにすばらしい。61年のヴィレッジ・ヴァンガードも、66年「Again!」でのヴィレッジ・ヴァンガードも、共にうつくしい。こんなに微妙な、こんなにぎこちなくて不器用な、はっきりと決められなくてモジモジするような、決めきれないそのままで、単体で置きざりにされた、あらゆる制御からはなれた旋律が、ほかにあるだろうか。そう易々と、気軽に褒めてくれるなよ、安っぽい感想はたくさんだぞ、と牽制するような音楽では無論ないし、やせ我慢じみた意地みたいな矜持みたいなものが、音の行間に匂いとして残っているわけでもないだろうが、それでも軽はずみな比喩や感情移入を拒みたいという潔癖は、そこに張りつめている気もする。

それが実況録音で吹き込まれてから五十年も六十年も経つのに、まだそのように聴こえる。それはそれですごいことだ。古い録音物の不思議さという話なのかか、それにはおさまらない話かわからないが、さらに数十年も経ってから誰か別の人が、もしかしてまた、そのことを言い出すんじゃないか、そうであればいいとも思う。