十月のほとんどを、古井由吉「槿」を読んでいて、昨日か一昨日終わって、今すごく自由な身になれた開放感がある。でも、それでかえって油断して、「仮往生伝試文」を買ってしまった。でも買っただけなので、すぐに読む義務はない。そこが、気が楽だ。


「槿」はとくに後半にきて、まあおそらく人並みに、かなりうんざりしてきて、登場人物の女たちの物腰やものの言い方ひとつひとつにさえ、かなり苛ついて顔をそむけたく感じてしまうくらいで、そもそももともと、僕は古井的な文章の独特な、かたい膝を運んでそろそろと、とか、みぞおちを窪めて、とか、張りつめる、とか、切りつめる、とか、屈みこむ、とか、くるまりこむ、とか、蹲りこんでなんとかかんとか…とか、そういう言葉の醸し出してる感触自体を、あまりすきではないというか、ああ、なんか、疎ましいなあ、面倒くさいなあ、と思ってしまうところがあるのだが、でもそれはもしかしたら、誰でもある程度は、そうなのではないかとも言えるのかもしれず、というか、そういうのが一々好きというのでもいいけど、そうではない状態で、しかしこれほど長大なものを、結局はひたすら読み続けてしまうというのはいったい何のかということの方が不思議である。いや一瞬、もう読むのをやめようかと思って、でも今感じているこの無駄な感触を、そのままひっくり返す感じにならないかとも思った。ここまで読んだのだから最後までがんばろう、という話ではなくて、最初に感じていたフレッシュさを脳内に再度甦らせて、という話でもなくて、今この停滞と退屈の苦痛感、空虚感をそのまま良しとしてしまうというか、それでそのまま自己肯定的に続けてしまおうという風に開き直るというか。


物語としても、なんというか、変な話で、二人か三人の女との関係があり、死んだ友人や、今、入院してる友人との関係があり、乗ったタクシーでの会話やら居酒屋の景色やら、ホテルやら人の家やら、電話の声やら病院の待合室やらが、だらだらーっと夢のようにあらわれては消えて、まあ、それこそお話がどうのこうのは、ほぼどうでも良く、女たちとの、もはや今何をしているのやら、会話してるのか移動してるのか交接しているのかも、ほとんど判然としないような、もう自分も他人もどろどろにだらしなく交合しまうのだが、でもやたらと理屈っぽくて自己内省っぽくて、女たちが色々言って、ぎくしゃくした身体を固めたり伸ばしたり縮めたりして、そこにはっきりと弧的な切断というか、強烈な非融合の区切りがあって、そのくせ、ああしろこうしろと一々指図がうるさく、中心にいる主人公はただひたすら、受身一方のままグレーの空間の中空を漂っているばかりというか、海の真ん中で漂流してるみたいな、地に足の付いた感じは一切ないというか、やっててもやってなくても、誰がどうでも、もうどっちでもいいよ、みたいな、これはもう、最後まできっとこのままでしかないのだと途中であきらめて読み進むしかなかったのだが、まあ色々と最後はそれなりには終わりの機微もあるのだが、でも本当に、ああ読み終わった、ということ以外の感想がなかった。いつか再読するか?と言ったら、たぶんしないような気もする。その理由は、なんとなくやはり登場人物の女たちが嫌な感じだからかな。でも、驚きが各所にあるのはたしかに間違いない。エスカレーターで井手さんが登場するところとか、駅で会うところとか、忘れがたいものがあるし、居酒屋の女将も、葬式のシーンも、タクシーも、どれもいい。というか、部分がいいのではなくて、もうその、一行のなかに起こっていることの一粒一粒というくらいの、小さな単位での問題なのだが。だから今、自分でこれを書いていて、決してこの作品を、つまらなかったということを云いたいわけではないのだということを云いたいのだが、なんというか、つまりは、この最後まで積み重なってしまった、かなりの層に積もったうんざり感である。大事、というか、書いておくべきは。そもそも小説という形式の場合、それを読んだら多かれ少なかれ、うんざりはするのだ。それなりに長いから。でも、それでもほとんどが程好い量に調節されているから、あまり気にならないというだけで、そうではないとこれほどのことになる、というのは、たまに長いものを読まないとすぐ忘れるところがある。


ある意味、長いのを読んだというだけでも充分で、この膨大な時間を!こんなだらだらのどろどろの、ぐたぐたとしたのらりくらりとした、じめっとしたような、肌寒い日の朝のひんやりとして湿ったような、そういうのばかりの何事でもないようなものにひたすら付き合っていたという、この今思い浮かべている記憶である。ほとんど記憶の記憶になってしまっている。