「もしかして今日、戦地へ飛ばされるかも」「命令が下るかも」と思いながら過ごす毎日が、どれほど辛いかというと、じつはそれほどでもない。なぜなら、すでに覚悟はきまっているから。自分はすでに、とっくの昔に生命をうしなったと思っていて、今の私の生は仮のもので、いずれこの戦争のために費消されることが確定しているのだから、いつ戦地へ飛ぼうが、いつ命令が下されようが、それは誤差の問題でしかない、そう思っている。

だからそれは大した問題ではない、思い煩うべき問題ではないというのが、自分の認識である。

しかし自分がすでにそう認識したことを、自分は毎朝、目が覚めた直後に思い出す。

朝が来て、まず自分を襲う感情とは、さあ今日は何が起こるのか、どうせ昨日や先週や先月と同じ、今日もまたロクでもない一日に違いなくて、クソほど役に立たない雑務に追われて、どうつもこいつも頼りにならない、悪化する一方の状況を眺めながら、口やかましく繰り返される上司からの指摘に一々言い訳して、根拠もない希望的観測を上塗りする、そんなことの果てしない繰り返しに、心底うんざりな、そんな思いだ。

そのうんざりした気分は先取りされて、朝いちばんの目覚めのときに、圧縮物として一気に押し寄せて来る。

そのときに「もしかして今日、戦地へ飛ばされるかも」「命令が下るかも」の予感と、自分はすでに死の覚悟を決めたという認識が、遅れてやってくる。それはまるで異なる味わいをもつ二種類の薬物を、続けて飲んだような感覚をもたらす。

どっちの味わいが、より自分なのか、よくわからない。どちらも合わせ呑んで、はじめてこの私が戻ってくる。すでに死の覚悟を決めた、もうこの世界に何の未練もない、幽霊も同然なはずの自分を、あらためて思い出す。

つまり自分は毎朝生まれてきて、その直後に死ぬ。それを毎朝繰り返している。それがいつまでも続く、あるいは、いつか終わる。でも終わるとしたら、それは死によってなのか。いつか、己が死の確定する瞬間が来たとき、それは終わりの感触をたたええているだろうか。確定した死は、それでも瞬間である限り、結局のところいつまでも、自分の手に届かないのではないか。