昨日だが、リム・カーワイ「すべて、至るところにある」(2024年)を観る。はじめて知る監督の、はじめて観る映画。ロケ地はボスニアとか、マケドニアとか、セルビアとかの一帯で、でもこの景色、この海、この場所が、本当にそこなのか、これほど空気の澄んだような、うつくしい場所なのか、と思う。

バックパッカーの女性エヴァが、たまたまジェイと知り合う。ジェイは映画制作者である。二人は意気投合し、ジェイは新しい映画を作りはじめ、エヴァは映画の出演者として彼に協力する。ただし撮影半ばで色々と揉めたりして、二人はいったん袂を分かつ。エヴァはその後、ジェイの行方を探す。知り合いを辿って、あの国へ行け、誰それを訪ねよとの言葉を授かって、さらに目的地へ向かい、彼を探す。

戦争そのものは画面に映り込まないが、戦争を通り過ぎて、今は地元のカフェに日々たむろする老人たちの姿を、カメラは捉えている。お前は何者だ、お前は誰だと、問わないで済むことこそが大事だと老人は言う。この場所で、ここでは誰もがお互いに何も問わず、こうして過ごしていると。

お前は誰だ、何者だ、はっきりしろと、問いただすところから、厄介ごとは始まる。疑いと不安と疑心暗鬼に囚われる。誰もが誰もを不幸へ落とし込む。わざわざ幸福に背を向ける。

ジェイはおそらく若者らしく生硬な考えの、青臭いやつだ。紛争の傷跡生々しく、今はパンデミックによって個々のうちへ閉じこもった世界に対して、本気で慟哭して叫ぶ。各地にあるモニュメントを背景にして、そんな自分をセルフ撮影して映像に残す。彼は変わることなく作品を作ろうとしている。

エヴァが彼を追いかける半ばの段階で、おそらくジェイはすでにこの世にいない。この世にいないとは、どういうことか。エヴァはそれを、あえてわかろうとはしない。わかっても認めようとはしない。それは悲しいからではなくて、今はまだその認識に甘んじる段階ではないから。

二人で作られた作品が、まだ誰にも観られていないことをエヴァは知る。それを公開するのは、彼女自身の使命であり、映画にかかわった以上、最後までそれをやり遂げる。映画を公開するのだ。それはジェイのためでもあり、映画そのもののためでもあるだろう。それを観られるようにすることが、たぶんあなたがたの役割である。

ジェイにせよ、エヴァにせよ、後半ジェイの恋人みたいな子も、すばらしい身体の若者で、彼らにとってこの世の空気に触れるだけで、生きてることは瑞々しい間隔に満ちていて、無条件に素晴らしいはずで、しかし体験のひとつひとつは、その都度大きな衝撃をもって、彼らに襲い掛かり、彼らを打ちのめす。

誰もがそうであるように、きっと彼らの存在も、体験という非物理的事象によって、物理的にすり減っていくのだろう。