古本で買った小林信彦と片岡義男の1980年頃の対談を読んでいた。小林曰く、戦争に負けたら、アメリカ兵に殺されると信じていた。しかし、進駐軍の兵士たちは皆ニコニコしている。この世の終わりが来ると覚悟してたのに、どうもそうではないらしい、それがわかった途端に、世間全体がアメリカ万歳となる。かつ、GHQと共産党への信奉が同時に起こって、我も我もと共産党へ入る。

(日独伊三国同盟のときに謳われた「バスに乗り遅れるな」という言葉は、1946年頃の共産党入党流行りの際にも、合言葉みたいに流行ったらしい。日本人が乗り遅れたくない、日本人だけに見える「バス」があるのか…。)

この時期、建前や信条はどうでもいいから、とにかく新しい「指導者」がほしくてほしくて仕方がなかった。マッカーサー様を信奉する人はたくさんいたし、その同じ人が、我先にと共産党へ入る。共産主義者の野坂参三が帰国したら、次の「指導者」かと注目する。帰国第一回の演説では右翼の人が前列で目に涙を浮かべながら必死に聴いていたと云う。マスコミもおおむね同じ風潮で、当時の読売新聞など、赤旗を越える勢いで過激な「左」だった。

GHQは占領軍ではなく解放軍だとの誤解というか解釈は、しだいに溶けていったのだが、そんなことは当たり前ではあるけど、当初は誰もがそれを決定できなかった。幹部が釈放されて共産党はマッカーサー司令部の前で万歳三唱したらしい。思い込みとはそういうことだ。

GHQにはニュー・ディール政策に関わった残党がわりと多くいて、本国で出来なかったことを日本で実験しようとする気運が高かったらしい。農地解放など、敗戦国に対する占領国からの一方的な施策としてでなければ到底不可能なことだったろう、と。地主が地主でなくなるというのだから、それはたしかに大変な「革命」だ。

一九四六年の元日に天皇の人間宣言、四日に軍国主義者の公職追放、十二日に共産主義者の野坂参三が帰国、その後、公娼制度廃止、新円発行(紙幣印刷が間に合わないから旧札に切手みたいなのを貼って使う)、五月にメーデー復活、三日に東京裁判でA級戦犯の起訴状発表、七月にソ連から抑留邦人引き揚げ開始、八月に警官がサーベルを止めて開襟背広の警棒所持スタイルへ変更、八月に高校野球復活、十月に十月闘争、スト開始、皇太子の家庭教師としてヴァイニング婦人がGHQに呼ばれて来日、十一月に新憲法公布、現代かな使いと常用漢字の告示、右書きが左書きに変更。

ただし当時の人々にとって最も喫緊の問題は食料だったろう。食べるものを得ること、食い扶持、それをつなぐ生活の道をまさぐる。きっと今も昔もそうだ。たぶん災害が起きたら、ふたたびそうなる。