音と場

レデリウスのフォルスト、エイフェックス・ツインコーンウォールみたいに、音楽と場所がセットになっていることは多い。それはその音の出生地あるいは音が生み出されるきっかけとなった場所を示す情報だが、音を説明する材料ではない。音を説明する材料とは何か。…たとえばジャンルだろうか。あえて乱暴に言えば、レデリウスはアンビエントで、エイフェックス・ツインはテクノか。その言い方が、なぜ乱暴に感じられるのか。レデリウスがアルバムの内側にフォルストの風景を印刷するのは、あえて音にイメージを隣り合わせるならば、その写真がもっとも互いに干渉しないと考えるからだろうか。リチャード・D・ジェイムスも自作をジャンルで括られたらいい気分はしないだろうが、コーンウォール産と呼ばれることにはそこまで抵抗しないのではないか(コーンウォール一派の親玉とか言われたら嫌がりそうだが)。コーネリアスはfrom中目黒と自らくりかえし称していたけど、あれも自分の音楽を何よりも場所と紐付けたい意志から来るものだろうか。細野晴臣がHOCHONO HOUSEを狭山で宅録したという情報は、その音楽を聴く上で単なる情報以上の価値をもっているような気もする。RCサクセションにとっての三多摩もそうだ。音楽と場所の関係は、たとえばその小説がどこで書かれたのか、その絵画がどこで描かれたのか、ということとは違った独特の趣きがある。それは音楽がその場において一度演奏され、空気中に放出されて、やがて消えたという「起源」を不可避的にもつからだろうか。複製作品であっても、むしろだからこそその場の特権性を気にしないわけにはいかないからだろうか。