均整のとれた、ギリシャ彫刻のような、筋骨隆々のうつくしい肉体、そういうのはふだん、僕は趣味ではないけど、でも映画でたまに出てくるような、おそろしいまでに美的な肉体をもつ登場人物、あるいは、この前フジロックで見たカトパコとか、ヒスパニック系の人物の「濃厚さ」もそうだけど、少なくとも自分などとはまるで別格のすばらしい身体というのが、この世にはあって、しかも映画であれば、その肉体によって演じられた性愛のイメージが描き出されることもあって、そんなときぼくが強く感じるのは「…こんな肉体に包まれた生があるのか…」といういまさらの驚きで、その姿や物腰や、その皮膚、髪、目と鼻と口と顎と耳…、そものすごく濃厚な、汗と脂まみれの、臭いも強烈な、猛烈な新陳代謝の行われる、そんな桁違いなスペックの身体が、その手探りのやり方で、何かをまさぐり、世界を感じ取り、快楽に浸り、深い歓びを感じている、そんな生態の存在感に、瞬時言葉をなくして、半ば以上は引きつつも圧倒されている。

ただ、行為そのものは人間に共通なのだし、強弱や濃度の違いはあっても、根本は同じなはずで、そして行為としての音楽とは、すなわち方法でもあって、誰もが共有する規則をもって、音楽を演奏したり聴いたりする。それによってぼくとあなたの違いが、ある程度は消える。同じものを同じように聴き、同じように歓びを感じる。もちろんぼくに出来なくてあなたに出来ることはあり、僕とあなたの感じ取るものはそれぞれ違うのだが、それも土台が同じであることで、はじめて知ることのできる差異だ。

まったく別の出自にある人間と人間が、同じ音楽を楽しむ。それは「売れる音楽こそが優秀なポップ・ミュージック」というセオリーを説明するものでもある。

その一方で「売れない」けど(今は)わずかな人につたわる力をもつ音楽の形式もありうる。それを交感し合うのも音楽だ。