山下洋輔トリオ「Clay」


クレイ


例えばマティスと言う画家の絵が、なぜあれほど素晴らしいのか?


それはマティスの手による、絵画的操作としての"ひとふで"や"ひとはけ"や"かすれ"や"こすれ"が、ことごとく、現実にある(我々が感じる現実的なイメージ)と確かに「関係」した(インタープレイの)その結果として現れている(ように感じる)からであり、同時にその絵を観る者が、そのように感じてしまうから/そう感じてしまうような絵であるから、だろう。


マティスの絵を観る事によって、現実という、実はすさまじい奔流の中で、通常なら判断力を保持する余裕がないような、極めて些細な視覚体験の時間の中で、「今、ここに筆を置く」と感じている画家の、その行為の必然性が、ありありと見えるような気がするからだろう。


僕はマティスと言う画家のあまり良き鑑賞者では無いのだけれど、そのような高密度での世界とのコミュニケーションの結果に戦慄するような感覚という事であれば、判らないでもない。


例えば、音楽の演奏には、はじめと終わりがある。演奏者同士が演奏を始める。


演奏者同士のフレキシブルなインタープレイが繰り広げられ、ひとしきりの時間が経ち、演奏の終わりが訪れる。(もしくは演奏者同士が目配せでもう終わりにしようと合図したときが実質的には、演奏の終わりかもしれない。大抵の場合、その後残されているのは終わるための作業でしかない。ただしかし、この作業を見届けるのも音楽鑑賞の大きな楽しみの一つなのだが)


フリージャズでも、普通のジャズでも、構造としてはこんな感じだろう。ここでのフリージャズの「フリー」とは、たとえばキャンバスに自由に絵を描きなさい。くらいの自由度でしかない。少なくともキャンバスの枠を越えることはできない。(音楽では、はじめと終わりという枠を超える事は出来ない)


ところで、ずいぶん昔の話だが、山手線の中でウォークマンに入れた山下洋輔トリオの「Clay」を始めて聴いていて、そのすさまじい演奏に全身の震えが抑えられなくなり、車内で軽い貧血を起こして倒れたことがある(笑)。


自分の中では、「Mina's Second Theme」と題された28分間と、「Clay」と題された15分間から成る、この即興演奏が開始されてから終了するまでの約45分という時間が、ある巨大な一つの塊としてイメージされている。


僕は自分の嗜好として、はじめと終わりが規定されていて、その中である魅力的な密度を持った何かが現れているような音楽が好きなのだとも思う。しかし要するに、僕が好きになる音楽とは、聴く者に、はじめと終わりが規定されている事を感じさせざるを得ないような演奏表現になっているという事なのかもしれない。


ふいに始まり、ふいに終わる演奏であれば、はじめと終わりから自由である。と言うのはあまりにも単純だろう。そうではなく、完全に不自由性の中に在るくせに、自分を含んだかたちで在るその枠自体に、軋みを立てさせるような演奏こそが重要なのだ。これがフリーと呼ばれるか?ジャズと呼ばれるか?それ以外か?は、瑣末な事に過ぎない。


要するに、3人の楽器演奏者が、高テンション状態を持続させつつインタープレイしてるだけの事なのだがしかし、それはどういう事なのか?誰かの出す音は、大抵の場合それ以外の誰かの、他の音に対する反応として現れる。それは音だが、同時にひとつひとつが、相手の音と協調(ユニゾン)するための、あくなき試行の繰り返しであるし、ある「関係」を成立させるための断片である。すさまじい運指でぎゃろんぎゃろんぎゃろんと山下は旋律を駆け降りて行くのだが、それは手癖でもなければ感情に任せた独りよがりでもない。その耳は明らかに森山威男の恐ろしく繊細なブラッシュワークを、かすかな一音まで聞き漏らさずに、聴いている。聴いている上で、それに確かに反応しているのが、聴く者に感じられる。それが、恐ろしいのだ。


音を察知してから、自ら反応のレスポンスを返す以上、そのふたつの音には時間的ずれが不可避的に生じるはずだが、演奏者のすさまじいスピードで織り成される相互コミュニケーションが白熱していき、時間的ずれが極限的なレベルまで減少していき、今、もしや、ほぼ遅延が存在していないのではないか?と、一瞬でも感じられるとき、聴く者は「感動」というよりは「恐怖」に近いような、金縛り状態を体験することになるだろう。あり得ないだろ!?という瞬間が圧倒的な力で耳に飛び込んできて、最後は貧血を起こしてしまうという訳だ。