面白くない


面白いと思う方向にどんどん進みたいと思っている。面白さがもっとも大切だ。自分が面白く、他人も面白い。家でのことなら僕も妻も面白い。その状態がいちばん大切である。


目的をもって何かを成し遂げるとか、モノを作るとか、かたちあるものを残すとか、そういうのはべつに、そんなに重要な事ではないじゃないかと思う。それよりもよっぽど大事なことは、とにかく、みんな面白いということについて、考えているという事である。


逆に言うと、何かを作るにしても、その面白い、を、それ抜きでできるようなものではないのである。


作るというのは、募金のようなものかもしれない。あるいは、お賽銭のようなものかもしれない。お賽銭と言っても、自分の願いをかなえて下さいというお賽銭ではなく、自分以外の何かへのために宛てもなく投げ込まれるようなお賽銭のことだ。そんなお賽銭は無いのか?無くてもいいや。有ることにしよう。皆が救われますように、とか、自分を許してくれて、自分を救ってくれて、いくら感謝してもし切れない、だからどうか皆に、自分と同じような幸福が訪れますように、と言って投げ込まれるお賽銭。ウチの息子が大学に合格しますように、とか、自分はかまわないから、自分以外の全員をお救い下さいとか、そういう祈りはどうか。


自分も他人も関係なく、ただ今、このとき全体をどうかこのまま幸いなものとして下さい、という祈り。作るということ。なぜそういう風に思うのか?というと、自分がかつて得体の知れない不思議な力でぐっと別の、もっと素晴らしく見晴らしの良い心地の良い、明快で染み渡るように爽快な空気が肌を刺すような場所に、有無を言わざず移動させられた経験があるからだ。その経験を願わくば自分以外の人々にも伝えたいからである。


経験を伝える。経験させるのではなく、経験した実感を伝える、ということか。僕も実は経験したわけではなく、経験の生々しい実感を聞いただけなのだろうか。もしかしたら、そうなのかもしれない。この現実世界に、実は、奇跡も魔法も起こった事実は無い。しかし、だとしても、経験の生々しい実感を聞いた驚きが、現実的な奇跡や魔法でなくてもかまわないではないか。


面白いということ。大げさかもしれないがキリストならおそらく愛と呼ぶような状態のことであろう。それを目指すのではなくそれが常にあるような状態。逆に、それが失われている、すなわち面白くない、と思われる状態を、今までもこれからも注意深くかつ徹底的に拒むべきだ。そのためにたえず新鮮な気持ちで呼吸を続けようとしているのだ。


僕は妻と二人で暮らしていながら、基本的にはそれをもっとも大事だと思っている。面白いということ。


面白さというものの難しさは、捉え方の難しさにある。そうすべきだ、やるべき事はそれだけだ、などと力を込めて思うときもあり、そういう思いでいつも、その方向に進む過程においては、ぐっと黙って集中するようになって、現にそうしてしまうのだが、そういう集中の在りかたというか、やり方というか、気持ちの運び方というか、それにも良し悪しのところがある。


面白さのためには、苦労も必要である。面白さと同じだけの情報量を得るために、全身全霊で自分の中のリソースを総動員して、あたらしいものを取り入れようと頑張る。それを苦労と呼ぶ。


苦労それ自体は、面白さではない。むしろ面白さから一時的に離れてしまうようなことである。そのやり方というのは、どうしても一つか二つあっても、自分だけで同時には出来ないし、人の手を借りられるたぐいのことでもないので、一個選ぶかあるいは順々に試すしかないので、やってみて、始まったらひたすら一方的に力を込め続けてしまって、後で振り返ってみて、なんだかゆとりのない、つまらないことをしてしまったと後悔することもある。あまり洒落もわからなそうな顔でひたすら黙りこくっているのはつまらない。それはたしかにそうだ。妻に申し訳なかったと後で謝るようなことにもなりかねない。なので、常におおらかでゆったりとした構えを初期状態の姿勢にしたいと思っている。


また、苦労の報酬について、どう考えるのか。けちけちと苦労の報酬を換算するのはとてもつまらない。見返りを求める態度は恥ずかしい。もっと鷹揚に構えていたほうがかっこいい。でも、まったく報酬を求めないのも良くない。自分のやったことに対して、きちんと自分に請求しないとダメだ。これは大人として、ちゃんとやらないと駄目なのだ。自分がこれだけやりました。じゃあ、どのくらい成果があったの?それを自分に聞いてみる。自分に厳しくあたるというのはそういうことだ。成果が上がらないからやめてしまえとは言わない。しかし、漫然と今に甘んじていてはダメでしょ?と自分が自分に忠告できないと、いつまで経っても誰も何も言ってくれないのだ。そこはちゃんと、自分で気付くように。


あとは、ある種の思慮というのか、気遣いというのか、慮りというものも大切にしたい。伝わって嬉しいとか、そういうものではなく、むしろ気付かれない。なにごとも無かったかのように、静かだけど、それで初めて価値がある、というか、いや、価値という言葉が元来そぐわないような、打ち水のようにさっと撒かれてあとは蒸発するだけの、でもそれがない環境というのは、もうそれは環境じゃないのだ。だからみんなでそれぞれ大事にしようよ、ということでもある。


何の話だったかというと、だから面白いのが一番大事という事で、さっき妻と話していて、今年ももう終わりだし、この一年どうでしたか?と聞いて、どうでしたか?と聞かれて、そう聞き返されてもとくに、何もこたえたくないような感じだったので、とりあえず今年ももう終わりと言いながら、まだあと1ヵ月はあるのだから、まだまとまらないか、とも思ったのだが、それでも何かあったか、何もなかったかということよりも、面白かったか?今は面白いか?の方がよっぽど大事だとこれを書き始める前に思っていた。


でも今日とかもそうだけど、最近の僕はどうもケチ臭いというか、みみっちいというか、自分がセコイ感じがする。なんだか、うつわが小さくて、我ながらダサい感じなのだ。なんか、それはどうなんだろうなあ…と、ここ数日、薄っすら自己嫌悪的な気分が続いている。