おらおらでひとりいぐも


若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」を読む。徹底して工夫が凝らされた複雑な旋律が複数からみあって、ただ聴いているだけでも相当に面白いリズムというか、魅惑的な音楽を聴いてノリ続けているような気分にさせる文体だと思った。東北方言が、何となく思い浮かぶような如何にもな雰囲気で使われるのではなくて、すごく面白いリズム感というか、言葉の意味を見事にエフェクトして、意味を緩和させたり強めたり、とてもいい感じに作用している。最初の数ページを読んだ時点でまずその音楽的な面白さを強く感じて、でも読むのにかなり時間が掛かりそうだなとも思ったのだが、中盤以降は予想以上にすいすいと読まされてしまった。というか、物語がやはり他人事じゃないと感じさせる部分もあり、そういう意味でも描かれた世界のなかへ強く引っ張られながら(後半ほとんど泣きながら、、というか泣きたいような気持ちで)読んだ。内面で自分が自分に対して語るその取り組みが「柔突起」のざわめきとして、あるいは山姥として、幽霊的なもう一つの存在として、さまざまにあらわれて、三人称と一人称と、言葉の、東北弁の、息継ぎのリズム感が周到に調節される。根底に叫び出したいような悲痛な孤独というか寂しさ哀しさがあり、しかしそれをそのまま引っ繰り返して歓喜と前に進む力の根拠に読み替え作り変えようとする気迫があり、そのパワーで描かれているような感じで、そこが読む者を鼓舞し感動させる。



老人というか、老いをテーマにした小説は、去年読んだ古川真人「縫わんばならん」もそうだったけれども面白いものが多い。(「縫わんばならん」は去年読んだ小説の中でも屈指の面白さであったというのを、このブログにまったく書いてなかったが…。)それも単に自分の嗜好というか興味がそちらにあるからなのか、いやそれだけではあるまい。老い=身体観察と描写の恰好のフィールドとして、少しずつ変化していく対象であり土台、基盤の状態報告であるが、それを複数の声と複数の視点から多角的に捉えていくことのあたらしい認識への試みが、そこで可能だからだろうか。