牧野記念庭園


そういえば波切の海沿いの道を父と歩いていたとき、道端の木が白い花を付けていて、これ梅?今の時期に?と驚いたのだが、キャプションがあって冬桜と書かれていた。桜だったか。しかし桜というよりどう見ても梅だ。で、今は11月。ちょっと季節感のパースペクティブが崩れて地に足が付かなくなるような感じがした。まあ、だからといって紅葉を見たらその時季だねと思うわけでもないのだが。西武池袋線大泉学園駅へ。牧野記念庭園の入口脇のもみじがかなり色付いていたけれども、それをとてもきれいだとおもったわけでもなかったのだが、赤い葉が晴れわたった青い空をバックに細かくぎざぎざとした模様を描いているのを見上げて、そうそうこんな感じですよねと思うだけだったのだが。この庭園内にはもしかすると梅はなかったかもしれない。


「雪斎・竹斎 英国キュー王立植物園帰国展」という企画展をやっていて、しばらく前に上野の博物館で見たボタニカル絵画の展示の流れのやつだが、十九世紀生まれの画家による百年以上前の展示物を中心としたやつで、植物細密画とはいえやはり百年前と今とではものを描くときの感覚的違いが如実に露呈されるようだった。物質に光があたるという現象をどう考えているかの違いとも言えて、今の画家は紙の上を光百パーセントの空間と考えていて、そこからじょじょに物質が、光の減衰と共にあらわれるような過程としてイメージを作っている、いわゆる写実系の場合ほとんどそんな感じだが、百年前だと光と物質というよりもやはり図と地、枠とその外側、ある割合と割合とのせめぎあいとしてイメージが作られている感じ。つまり平面意識というか枠内に対しての気の張り方としては百年前の方が全然強く、今は平面、枠というものを見てみぬふり、なきもの、仮構と考えるのが当たり前なのだと思った。その違いがおのずと構図の取り方とかの違いとして出てきて、平面絵画としての面白みはどうしても百年前の方に軍配があがるのだった。


庭園前から路線バスに乗る。三十分ほどで吉祥寺の古本屋を見た。通りかかった八百屋でわさびが480円で売ってたのを買う。ちゃんと氷に浸された新鮮そうなやつなのに安い。スーパーの疑問な鮮度のやつをこの倍の値段で買うのはもうやめたい。電車で西日暮里に移動してまた古本屋を見たあと、少し日本酒を飲んで帰った。