友達

チャンドラー「長いお別れ」は「パパイヤ・ママイヤ」のような青春小説ではないけど、あれも「ベストフレンド」との出逢い系ジャンルであると、言えなくはないだろう。だからというわけではないけど、数年前に途中まで読んだのちほっぽらかしていた「長いお別れ」を、最近たまたま手に取ったのをきっかけに最初から読み直している。

だいたい「ベストフレンド」と出会うきっかけとは全然劇的なものではなくて、きわめて些細な、あるいはきっかけ自体がなかったりする。結果的に掛け替えのない親友となったその人と、私はなぜこうして出会えたのか、そのことはあまり問題ではない。何にせよとにかく出会えてしまったから、その物語ははじまったのだ。「長いお別れ」でマーロウがテリーとはじめて出会って以来、なぜあれほどマーロウがテリーに対して思い入れをもつのか、その理由がまるでわからない。「どうしてもきらいになれない人間だった。こんなことがいえる人間に、一生のあいだに何人会えるであろうか」とか、言ってるだけで、とにかくあいつはそういうヤツなんだとしか言ってない。そしてもちろん、それはそれで良い。

そもそも「ベストフレンド」系自体が、恋愛系ジャンルに含まれるのかもしれないけど、ここでモチーフとなる「友達」というのは、少なくとも「あの人を私の友達だと思いたい」そんな相手とは、私にとってたぶん現世的な利害とかとは無関係に、この私のもう一つのバリエーションであり、この私が潜在的にもつかもしれない別の可能性、私の体験(よろこびや痛みや悲しみ)と相手のそれとが、齟齬なく交換可能で、友達の成功や幸福を願うことがもう一人の私へのエールであり、この私の心からの願いでもある、そのような特別な相手だろう。つまりそれは相手に自己愛を見ているのではないか、そう問われるならそうではないと返したい。あくまでも相手を見ていて、相手を愛している。唐突だけど「己を愛するがごとく」友人を愛することが、そのときだけ成立している。そのような特別さが言祝がれている。

もちろん「長いお別れ」は、そのような特別な時間が序盤で早々にうしなわれるその後の物語で、無いものを巡って彷徨い、謎を辿って渡り歩く、それはそれで、きわめて典型的な作品だと言えるだろう。