家に居ます(そして描く)

気分は良い→いいのかわるいのか?
具象。
美しいと思う。←それを信じられない?
はじめからこんなことしなきゃ良かった。←20世紀以降の画家共通の思い。


制作中に、ぼやっと思い浮かんで、ああこれblogネタだなーでも忘れるなーとかいつののように思って、まあでも今日はメモっとくか。と思って、かなり断片的な言葉として、クロッキーブックの裏に鉛筆で走り書きしたのが上の段落の文章である。それから約12時間して、今、キーボードを叩いているのだが、そのときの感覚はやはりもう、忘れてしまった。断片的な言葉だけメモがあるから、何をそのとき考えたのかと概略だけはかなり正確に思い出せるのだけれど、その時の感覚的なものは、まるで失ってしまった。


…まあ要するにかなり高揚感に包まれていたのだと思う。しかし、それと同時に、すごい自分の限界を見るような鬱陶しい気分でもあったのだと思う。高揚感とは、いつもそのときの自分の達成を指し示すから、目の前のイメージに満足しつつも、ものすごく失望している。こんな言い方はカッコよすぎで、ちょっとイヤらしい気もするが、別にカッコよくなんかなくて、それは僕の描くものが具象表現としていつでもぱっくり口を開けて待っている、あるわかり易さに容易に嵌ってしまうことで陥る固有の事情なのだ。


なんか美しいと思うこの感じを、徹底的に突き進んでしまう事自体に、その足元が崩れないことには駄目なんじゃないの?と言う声が常に聞こえてくる感じとでも言おうか。


今日は、結構有意義な制作が出来たと思っていて、それはある一連のプロセスが確立したなあという感覚を持ったからなのだが、「プロセスの確立」というの自体が、いまいち絵画的スリリングなものとはちょっと違う、安定的な何かなのは重々承知であるが、でもそれを使うも捨てるも自由な場所に来る事自体は有意義な筈だ。…というか、放っておいても、僕は僕が嗜好する方角へ進むのだ。それでいいでねーか。誰が何を言おうがどうしようもねえのだ。。まあとりあえず、未だやる事は、結構ある。その事実だけが、僕を救う。