ゴーギャン


7月にはゴーギャン展が竹橋で開催されるらしく、本屋でゴーギャン関連の本が目に付くことが多いのだが、本屋でたまたまゴーギャンの画集を見てたら、あらためてその作品に激しく魅了され、そのまま今日はゴーギャンのことばかり考え続ける。図書館に行って大型本のコーナーで4〜5冊あるゴーギャン画集を次々を見ながらひたすら陶然・恍惚となっていた。もともとドニ、ボナール、ヴュイヤールなどのナビ派の作品群に昔から惹かれるところがあり、あとニコラ・ド・スタールとか、クリフォード・スティルとかもすごく好きで、かつ、ゴーギャンも好きなのだが、これらの画家に共通する、わざわざ絵の具から油抜きしているかのようなパサパサな感触の顔料を厚く画面において、しかもその置かれた絵の具が置かれた状態の外側へと激しく領土を広げようとしてせめぎあうかのような干渉と震えの運動が感じられるような感触に、とてもひきつけられる。


しかしあらためてゴーギャンの図版を見ていると、そういう色彩と形態の震えるようなせめぎ合いの魅力もさることながら、あらためて感じるのはゴーギャンの作品というのは何よりもまず、そのあられもない、モラルもへったくれもないようなあからさまな、タヒチ人の女性たちの肢体の露呈であり、その褐色の肌に魅了され、凝視し、深く静かに欲情する事なのだとさえ思えた。正直、どう考えても、ゴーギャンタヒチのシリーズは、きわめて植民地主義的であまりにも酷く一方的な立場に乗っかった上で成り立つものだというのは間違いないと思うが、でもそんな事とはまるで無関係に、その作品群はすべてが宝石のように輝かしい。とにかく、ゴーギャンの描く裸体を見ていると、これにほんの少しでも響きあうことが出来ないのならば、いや少なくともこのような裸体画があることに畏れを感じずには、人物画など描くべきではないとさえ思える。寝そべる、立膝を立てる、腕で上半身を支える、立つ、しゃがむ、など、すべての仕草があまりにも瑞々しく生々しい。殊に「赤い花と乳房」。この匂い立つような感じ。。これなど有史以来、人類が生んだ最高の人物画と言っても過言ではないだろう。あるいは「死霊が見つめる」の、うつぶせにされた、不安と警戒だけは強烈に纏いながらも絶望的なまでに無防備な、汗で光る褐色の裸体。その神をも畏れぬエロの力と死の魅惑感。これは作品とか芸術とかいうよりも、それ自体でひとつの死ぬほど旨い料理とか酒のようなものだろう。そしてそれを堪能するという事の快楽と、裏側に貼りついた極度の後ろめたさや罪悪感それ自体でもある。それら一切を含みこんだまま、口の中で咀嚼して、口内から全身に広がる滋味に身もだえするより他ないようなものであるだろう。…ゴーギャンはすばらしい。圧倒的。


でその後、我に返って、図書館を後にしてから、食材を買い物したり色々して、しばらくしてから、さっきまで夢中になってゴーギャンを観ていたときの時間を思い出して、よく考えたらあれほど「ベタ」で「コテコテ・ギトギト」なプリミティビティ全開なものを、なりふりかまわず必死にかきこむように目でむさぼっていた自分が、少し間を空けてから振り返って思い出すと、自分自身でも何だか信じられないというか、自分て昔からこんな趣味だったっけ?とやや訝しいような気分になってしまった。