夜、満開の桜を見上げるという行為を、ひさびさにした。桜なんて、べつに毎年咲くものだし、満開だからといって、さほどしげしげと見つめるわけではない昨今だが、今日は見た。そしてわざわざ鞄からメガネを取り出して、それをかけて、あらためて見上げた。

桜が咲いている様子をはじめて「きれいだ」と思ったのが、いつだったかおぼえていないが、ある人物があるとき桜を見て、ああ桜のあのピンク色は素晴らしいと日記に書いた。僕が雑誌に掲載されたそれを読んで、なぜか心を揺るがされた、そのことは今でもよくおぼえている。今から三十年近く前である。おそらく桜の咲いている様子を僕が「きれいだ」と思うよりも、その文章に心を動かされたのが、順序として先だったのかもしれない。それを読んだから、はじめて僕のなかで、桜がきれいだということになったのかもしれない。

桜そのものが、そもそも日記のようだと思う。誰かが、それを見た。そのことをどこかに記す。桜はほとんど、そのために咲いていると言って良い。そのおかげで、三十年近く前の桜が、いまだに咲いている。それは桜というよりも、かつてそれを見ていた誰かの過去を、いま私がそのときの誰かになりかわって見ている、そのように目の前に描きだすための再生装置のようだ。